「SEALDs」からのスピーチ
(11月20日「世界子どもの日」イベントにて)
こんばんは。SEALDsの山田和花といいます。 今日はこのような場でスピーチする機会をいただきとてもうれしいです。ありがとうございます。このような素晴らしい方々と共にここに居ること自体、なんだか夢のようです。私、小さい頃に夢中になって何度も繰り返し観ていたアニメがあるんです。今日この場にいらっしゃる高畑勲さんの作品「パンダコパンダ」が本当に大好きで、イベントの依頼をうけて即答しました。「やります!」って。深夜にうれしさのあまり寝ている母を起こして、興奮して「パンダコパンダ」についてマニアックに語っていた自分がいました。名前を出し、顔もだし、色々ありますが、こんなご褒美もある。「SEALDsでよかったな」と思ったことも事実です。うれしさと勢いで手をあげましたが、今日が近づくにつれて緊張は増し、実は本当に、本当に、緊張しています。でもがんばりますので短い時間お付き合い下さい。よろしくお願いします。 私はSEALDsの前身、SASPLの活動の後半から加わり、exSASPLをへてSEALDs結成当時からメンバーとしてデモに参加したり、国会前でスピーチや交通整備を行ったりしてきました。「デモなんて」とずっと否定していた自分が、初めてデモに参加した時の記憶はまだ鮮明に残っていて、当時の自分が国会前でまさかスピーチをする日が来るなんて思いもしなかったと思います。 衆議院の委員会強行採決がなされた翌日の7月16日の夜、私は国会前でスピーチをしました。国会中継なんて今までまったくといっていいほど興味がなかった私にとって、目の前の茶番劇は、目を疑いたくなる場面ばかりでした。委員長はロボットのように台本を読み続け、質疑ではオウム返しのように魂のこもってない言葉が並ぶ。中身の無い言葉ばかりをひらべったく組み合わせ、のらりくらりと、はぐらかす。採決の声に反応するように与党議員の多数が立ち上がった時の印象は、まるで自分の意思がないロボットと思える姿ばかりでした。小さい頃から戦争はいけないものと誰もが教わってきたのに、戦争は誰もしたくないはずなのに、この国の最高機関である国会がなぜ戦争ありきという前提で議論をスタートさせているのでしょうか。 誰かの命の犠牲の上で、成り立つ平和を私は平和とは呼びたくないのです。私が望むこの国の未来は、日本にしかできない平和への道を諦めず模索する成熟した国。命を大切にする国そんな姿なのです。 私には、自分の中の軸として大切にしている感性や倫理観があります。それらは小さい頃に読んできた絵本などから、強く影響されていると思います。 幼稚園にあがるまでの私は絵本が大好きで、何度も何度も同じ絵本を読み、次の内容は読まずとも思い浮かぶぐらいだったそうです。今でも大好きな絵本は手元に置いてあって、中のページがボロボロだったりします。だいぶ手放してはしまいましたが、この本だけはと残しておいた絵本を、今回、スピーチの原稿を書くことをきっかけに見直したりもしました。手元に大事に残したそれらの絵本は、不思議と、笑えるお話やなぞなぞ等ではなく、とても悲しい話の絵本ばかりでした。 「かわいそうなぞう」もそのうちの一つです。今日はここに一緒に持ってきました。この本は母から小学校一年生の誕生日にプレゼントで貰った本です。誇らしげに覚えたての漢字で自分の名前が書いてあります。母が同じように子供の頃、この本に出会い心揺さぶられ、子供が生まれたらこれだけは読ませたいと思っていた絵本なのだと後になってから知らされました。 当時の私は、「なぜゾウを殺さなければならないのか?」となきじゃくっていたようです。自分でも遠い記憶のなかでそれが確認できます。今でも読み返すと泣いてしまいます。戦争は人間だけでなく生きとし生けるものの命すべてを巻き込み殺すことを許してしまうものなんだと、幼いながらも確かに理解したのです。想像したのです、ゾウだけでなく他の動物園の動物たちの苦しみを。食糧や水を与えられずに死んでいったゾウが食べ物をおねだりする格好で死んでいるという描写から最後までゾウは人間を信じていたんだということを。単語でしか想像ができない見たことのない「戦争」という言葉から、すべての命より優先されるそんな理不尽さと恐ろしさを感じたのです。 それでも、「それしか方法はなかったのか?」「どうして殺すしかないって諦めてしまったのか?」「どうやったら死なずにいれたのか」というアナザーストーリーを必死で考えて、私はもてる想像力を広げる努力をしました。絵本は想像する力を与えてくれる。そう思っています。自分だけのアナザーストーリーを作る事。それが今の私たちに欠けてしまっていることではないでしょうか? 積み上げられた間違った常識によって想像することを止めてしまうことを私は一番恐れます。なぜなら、常識とは知識が常にあるだけで、その知識は正しい知識とは限らないから。ただ単なる多数が信じている知識でしかないからです。 あの時にあの絵本に出会えたことが今の二十歳の私の深い潜在意識の中でこの行動を起こさせている一因になっていることは間違いないと思うのです。私のひいおばあちゃんは実際、戦争を生きた人で、当時、子供だった祖母に口頭で戦争の悲惨さを伝えたのかもしれません。祖母はその想いを二度と繰り返してはならないと動物を好きな私の母に絵本を通じて想いを伝え、強烈に心を揺さぶられた私の母は、私にこの絵本をプレゼントしてくれたのです。大切な想いと共に。 その想いのバトンが私の感受性に触れて、今の自分の一番の願い「よりよい未来を次の世代に引き継ぐこと」に繋がりました。3.11の震災の後、原発事故をうけて、当時、高校生だった私は、「ただちに人体に影響はない」という政府の発表に疑問を持ちました。「ただちにとは、どういうことなのか?もしかして後々にはどうにかなってしまうのだろうか?」と。広島でも長崎でもチェルノブイリでも当時被ばくしていない世代が苦しんでいるという現実を知り、どうしてなのだろう?という疑問がわきました。 その中で知ったことがあるのです。「卵母細胞」といって、私という卵は祖母が母をお腹に宿したときに既に作られていたということを。 今の私は、祖母がどう生きたかでつくられたのだと。では、今の私がどう生きるか?それはきっと未来の私の孫までかかわることなのだ。私の命は、私の人生は、私一人のものではないのだと知ったのです。私は祖先の人に、祖母に感謝をしたのです。 自分がどう考え、どう生きるのか。それを問い続け、伝えていくことこそ社会を存続し、また変えていくことなのではないかと。遺伝子の暗号にもきっとその思いは組み込まれているのじゃないかな、今の私の生き方もきっと未来へのメッセージとして組み込まれていくのじゃないかなと信じて疑わない自分がいます。だから思いを伝え、願い続けていきます。 想いは伝えなければ、途切れます。どうか小さな声でもいい、隣の大切な人にだけでもいいから発してほしいのです。 最後に、ナチス広報担当相の「嘘も百回繰り返せば真実になる」という有名な言葉があります。まさに、権力者側の常識を作り出すためのそんな考えです。 でも、私は、その逆も通じると思っています。 私たち側だって、どんなに挫折しても、どんなにがっかりしても、どんなに裏切られても、繰り返し言い続ければ真実にできる。 そう思いませんか? 権力者が、百回なら、市民の私たちはその何倍も何十倍も言い続けなければならないと思います。でも言い続けていけば仲間が増えます。影響力も拡がっていくと思うのです。 だから、私は言い続けます。 「本当に止める」 戦争に進むこの国を、本当にとめる。 憲法を変えて独裁をしようとするこの国を、本当に止める。 止めるまで言い続けます。 自分の代で止まらなくても、思いを伝えて生きていきます。 諦めずに伝え続けていきます。 この国が立憲主義を取り戻すまで。 世界中の戦争が本当に止めるまで。 今日は、ありがとうございました。
(撮影/米沢 耕)